味方の10人が試合を戦っているのに、この人だけは毎日の散歩をしているようだ。楽しむというよりは日課をこなしているだけといった風情で、周りで何が起きようと無関心を装う。スイス戦のメッシは、まるで老人のようだった。
「今日はいつもより30分長く歩こう」
延長戦にもつれ込んだ試合でそう思ったわけではないだろうが、もしお年寄りが試合を通じてメッシのお供をしたとしても、110分はついていけただろう。それほどまでに歩みが遅く、行動範囲も狭い。ただ、ボールと状況は抜け目なく見ていた。
アルゼンチンの元祖・王様マラドーナが子供のようにボールを触りたがったのとは対照的に、現チームの王様メッシはボールに関心がないかのように振る舞う。だが、対戦相手はこの非生産的な10番を放っておけない。いつ、とんでもないことをしでかすか分からないからだ。無視したいけど、無視できないー。恋愛の心理と同じか。スイスの選手たちも本当はメッシにはかなり興味があるのだ。
結果、スイスはメッシをマークする“死に駒”を作らざるをえない。ピッチの局面では10人対10人のサッカーが激しく競われている。それでも、メッシは―例え、味方が倒れようとも―われ関せずを決め込む。
この男は、いつ「やる気スイッチ」を入れるのだろう。もう間もなくPK戦だ。そう思い始めた延長後半13分、メッシがいきなり動きだした。スイッチを入れたのは、ハーフライン付近でスイスのボールを奪い取ったパラシオからのパスだった。それまで老人のような緩慢さだったメッシが、突如、テレビのゴール集で見るメッシに変わった。
ドリブルだけでDF4人を引き付ける存在感が自身にはある。そのことをメッシは知っている。ゴール前にスイスDFを集めると、フリーとなっていた右サイドのディマリアへ。ディマリアはボールを流し込むだけでよかった。
何という効率のよさ。ワンプレーで試合を決めてしまう。歩いていただけに見えたのに「マン・オブ・ザ・マッチ」。延長戦を終えても息さえ切れていない。王様は雑務をこなさない。ただ勝利という結末を決定するだけ。それが、この日のメッシだった。
岩崎龍一[いわさき・りゅういち]のプロフィル
サッカージャーナリスト。1960年青森県八戸市生まれ。明治大学卒。サッカー専門誌記者を経てフリーに。新聞、雑誌等で原稿を執筆。ワールドカップの現地取材はブラジル大会で6大会連続となる。
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