伝統の技法を受け継ぎ、機械化、近代化の波を乗り越え大衆に受け入れられてきた小鹿田焼
全国屈指の民陶
軽くトーン、あるいは鈍くドスッ。音色は微妙に違うものの、陶土を砕く唐臼の音が狭いながら明るい谷間に流れる。その響きは「日本の音風景百選」だが、ここ皿山に生まれる小鹿田焼は全国でも屈指の民陶である。
日田盆地からかつての英彦山参拝道の小野川をさかのぼり、山に囲まれた支流の皿山川流域に入る。焼き物の集落が立地したのは宝永二年、およそ三百年前と伝える。近くの山で陶土が見つかり、黒木家が資本、坂本家が土地を提供、そして柳瀬家が福岡県内の小石原焼の技法を伝えて開窯したとされる。
その百年後に出た『豊後国志』は日田の特産として紹介し、焼物師は三軒と記す。半農半陶の生活が長く続いたことだろうが、土と水と燃料の木に恵まれ、徐々に発展する。明治初めには窯元も六戸。以後、今日の十戸に増えたものの、土の香りが濃い製品は工業化による新製品に押されて長く苦労した。
小鹿田焼が一躍名前を売り出したのは昭和初期、民芸のリーダー柳宗悦の『日田の皿山』によってである。彼は小鹿田焼に「美しさ」と「強さ」を発見した。さらに戦後、英国のバーナード・リーチが訪れ「私は小鹿田焼に学びに来た」と語った。
九州の陶芸は、秀吉の朝鮮出兵に参戦した西国の大名たちが高度技術を持つかの地の陶工たちを連れ帰って栄えた。多くの窯は殿様のため茶の湯の碗(わん)などを焼いた。だが、小鹿田焼は庶民向けの日用雑器を焼き続けた。殿様はいなくなっても、民衆は生き続ける。小鹿田焼は大衆に支えられて現在に至る。
技法は伝統にこだわる。製品は多彩だが、すべて日常生活の器。絵柄はないものの、刷毛目(はけめ)、打ち掛け、飛びカンナの文様は独特のもの。民陶の美と力は、機械化、近代化の波を乗り越えて人々を魅了する。
(文・梅木秀徳 写真・宮地泰彦)
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