天領・日田が生んだ学者広瀬淡窓が開設した私塾「咸宜園」。閉塾までの80年間で、高野長英や大村益次郎など著名な教え子を輩出した。
淡窓開設の私塾
江戸時代、天領の日田が生んだ学者、教育者、そして詩人でもある広瀬淡窓が開いた私塾が咸宜園(かんぎえん)。広かった敷地のうち、東塾の跡に現在、秋風庵、遠思楼などが残され、一九三二(昭和七)年に大分県で最初の国史跡に指定された。
淡窓は一七八二(天明二)年に日田の豪商・広瀬家の長男として生まれたが、病弱だったため家督を弟の久兵衛に継がせ、生涯を学問と教育にささげた。福岡藩の亀井南冥(なんめい)の塾で儒学を学んだあと、日田に帰り闘病生活のなかで独学を続け、一八〇五(文化二)年に私塾を開く。
塾は成章舎(せいしょうしゃ)、桂林荘(けいりんそう)と続いて十余年後に咸宜園となる。「咸宜」は中国の古典「詩経」からとられた言葉で「ことごとくよろしい」の意味。言葉通り、塾に学ぶ者は平等。入学に際しては名簿に必要事項を記入すれば、身分、年齢、学歴に関係なく横一線で学習を始めた。
ただ、平等主義に加えての実力主義で、勉強は厳しかった。毎月の試験成績によって無級から九級にまで位置づけられた。さらに講義はもちろん、会計や食事、清掃など塾の運営から図書の管理まで、塾生の分担で規律正しく進められた。学力だけでなく、社会性や人間性を育(はぐく)む教育システムだったと言える。
淡窓に「休道の詩」がある。「道(い)うことを休(や)めよ他郷苦辛(くしん)多しと。同袍(どうほう)友あり自(おの)ずから相親しむ…」。学問と塾生活の苦楽を「諸生ニ示ス」ものだった。
全国六十余州から塾生が集まり、時には二百人を超え寮制を敷いた。日本最大級の私塾で、閉塾までの八十年間に入門者は女性も含めて四千八百人といわれる。高野長英、大村益次郎、上野彦馬、中島子玉、長三州などなど。一八五六(安政三)年、淡窓没。墓地は近くの長生園にある。
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